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交通事故死した飯村大くんからのメッセージ。アシストの歴史

今日4月25日は私にとってとても大事な日です。

 

飯村大くんという私の教え子の命日でした。毎年、大くんが交通事故でこの世を去ってから今日でちょうど2年です。2年前、大君のお母様から私宛に電話がありました。何か嫌な胸騒ぎがしました。大くんが夜中に北海道の支笏湖近くの道を車で走っていたとき、何かを避けるようにしてハンドルをきり(たぬきでも避けたのでしょうか)、あわててハンドルを逆に戻したところ、道路わきのコンクリートに乗り上げ、横転し、電信柱に激突した、とのことです。腹部の骨がすべて複雑骨折し、苦しむ間もない即死だっただろう、とのことでした。私は自分の中で何がなんだかわからなくなり、絶句したあと、教室には先生も生徒もたくさんいるのにもかかわらず、電話口で号泣、嗚咽しました。

 

死ぬ直前、死ぬ瞬間、大君は何を考え、何を感じていたのでしょうか。あまりにも早すぎる彼の死ですが、彼は幸せな人生だったのでしょうか、そうではないのでしょうか。それは本当のところは私にはわかりません。ただ、これから紹介する彼が残したメッセージを読むと生きがい、やりがいに溢れた幸せな最後の数年間だったのではないかと思います。彼が20歳のときに書き、ベッドの横にはりつけ目標にしていた紙と、お父さんへの手紙を紹介します。お父様への手紙は書いたものの、投函することはなく、彼の部屋に残されていたそうです。志半ばで昇天した彼のメッセージを読み、何かを感じてくれる事を願っています。私たちも一瞬一瞬を大切に、自らの人生を燃やし続けていかなければなりません。

飯村大君がアシストに通っていたときのこと

私のアシストという塾は平成9年にスタートしました。当時、私はそれまで勤めていた銀行を26歳で退職し、「子供たちにやる気、勇気、元気を与えよう」「タフに生き抜く子供を育てよう」と思い、資金も経験もないまま横浜のマンションの1室を借りてスタートしました。当時は私の住まいと職場が兼用の本当に小さな小さな塾でした。不登校の子ばかりが集う塾で片道2時間くらいかけて通ってくる生徒もいるような一種独特な塾でした。  そんな小さな塾の初期のころ、Yくんという不登校の塾生に連れられて大君はアシストにやってきました。Y君が言うには「先生、俺もいい加減でダメ人間だけど、この大って奴は俺の100倍、無気力でやる気がないんだぜ!ははは!」などと紹介されていました。

 

本人に聞くと小学校4年生から不登校が始まり、19歳の今まで何度も学校に行きかけたけど、続かなくなり、ほとんど学校には通っていない、とのことでした。そのときも大検を受検しようとし、駿台予備校に行き始めたけど、結局すぐに通うのをやめてしまっている、という時期でした。

 

大君は身長が170センチくらいあるのに体重は43キロしかないやせっぽちの男でいつも顔色が悪く、一日にコーラを10本以上飲んでいるような子でした。友人に連れられて塾に来ると、いつもそれなりに楽しんでいくのですが、友人に誘われないと一人では塾に通えないような生徒でした。

 

家に帰ると「塾に行って、今村先生に会うのは楽しいんだよな。でも、行くのが面倒だから、朝起きれないんだ」と通うのをやめてしまうような無気力な不登校児でした。

塾にも来たり来なかったりが続いてはいましたが、少しずつ彼の顔に生気が浮かんできたころ、彼に「ねえ、大君。大君が一番やりたいこととか興味って何だよ?」と尋ねました。すると「麻雀と車の免許を取ることかな」と言いました。私は「人間、興味のあること、好きな事をするときには気力が充実し、疲れもしない」「長所を伸ばせば気力体力が充実してくる」「一流の人間に関われば一流の人になれる」ということを経験的に知っています。彼の人生の無気力な悪循環をとめるにはとことん好きなことに没頭させることが必要だ、と思い「よし!麻雀の世界に桜井章一さんという素晴らしい人がいる。大君、桜井章一さんの主宰している麻雀道場に通って、雰囲気を楽しんで来い。そして車の免許も取って来い。ただし、今までの大くんだと車の免許を取りに通い始めても、途中で億劫になり通うのを止めてしまう可能性もある。だから自動車学校は塾の裏手にある関東自動車学校にしろ。さらに免許を取るまではうちで合宿しろ」と話しました。

 

当時、一度家に帰ってしまうと、だらしない生活に戻ってしまったり、陰気な生活に戻ってしまう子が多く、いかに塾で楽しい体験をさせても、塾に通うのを面倒になってしまう子が多かったので、積極的な生活習慣がつくまでは塾で預かっていて、たくさんの生徒が塾内で共同生活をしていました。朝はランニング、昼は少しだけ勉強をして、あとは大好きな漫画を読んだり、テレビ、映画を見たり、昼寝をしたりで、英語や数学の勉強なんておまけ程度のものでした。ただし、積極的なものの考え方、見方を手に入れるためにウェイトトレーニングと読書だけは必須でした。大くんは腕立て伏せも腹筋も1回もできないようなもやしっ子でした。当時は生徒数も少なく、同居している約15人の生徒の食費などの生活費はすべてこちらで個人負担していたので、私自身、相当お金に窮していて、昼間は土方のアルバイトやその他の金になることはなんでもやるくらい必至になってバイトをしながら皆を養っていました。ただし、このころが大君にとっても僕にとっても一番の青春時代だったのかもしれません。6畳2間に15人くらいが雑魚寝をしていて、なんの具も入っていないそばやうどんを食べ、それすらも切らしているときには誰かが冷蔵庫の隅からマヨネーズを見つけてきてみんなの手のひらにマヨネーズを少しずつたらし、みんなでペロペロなめながら空腹を癒し、大笑いしていました。まだ私も26歳で良い兄貴分でいてあげられ、たくさん関われる時間があり、笑がたえなかったあのころがアシストの原点なのでしょう。

 

うちで共同生活をするようになってしばらくしたころ、筋トレ効果と桜井章一先生の麻雀道場が良かったのでしょう。大君は気力体力充実し、大検試験にも合格しました。目にも力が入っています。さらに大君はスクワット500回、腕立て伏せ100回、腹筋300回ができるようになっていました。

このころから無気力な大くんはどこかに消えうせ、いつも快活な男になってきました。「この漫画おもしろいから読めよ」「この本、おもしろいから読めよ」「○○っておもしろいから大君、やってみろよ」と伝えると水を得た魚のように僕が渡した課題を楽しみながらこなしていきました。このころに読んだ本で中村天風師の本が彼には会っていた様子で「僕は積極的な行き方をするんだ!」という決意が伝わってくるような風格が漂ってきました。すでに僕にとって教え子というよりも、良き話し相手、一人前のパートナーになっていました。

大検合格後

大検合格後、大君はすぐには大学進学をしませんでした。何をやりたいのかをもっと考えて、英語の実力をもっと身につけてから大学を選びたい、と言っていました。そんなある日、私のいとこが自動車短大というところに進み、立派な知識と腕を手に入れ、充実した人生を手に入れている話を大君にしました。「大君、まわりが言っているような偏差値や世間体で学校選びなんかするなよ。それでは今までの小学校、中学校、高校と同じでつまらなくなってしまうぞ。また通うのがイヤになてつぃまうぞ。お前の一番好きで一番やりたいことに磨きをかけるような道を選べよ。と伝えました。そうしてしばらくすると、彼自身も車の世界で身を立てたいという自分の深い心に気づき、北海道自動車短大への進学を決めました。

 

横浜を離れ、札幌に行く直前に大君と飲みました。彼は希望にあふれていました。私はとにかく「自分のしたいことをしろ。まわりの目は無視しろ。おまえには無限の可能性がある。無理に決まっているよ、と無責任に言う夢泥棒の言葉には耳を貸すな。学生時代に確固たる自信を持つために何かで北海道で一番になってこい。できればどんな小さなことでもいいから日本一を目指してみろ」と話し、送り出しました。

その後、彼は横浜に帰省するといつも私に会いに来てくれ、楽しい報告をたくさんしてくれました。大学の自治会の会長になったこと、ソーラーカーの大会で優勝したこと、成績優秀で卒業式の総代になったこと、車のレースで活躍していること・・・・・・。そこには10年間、不登校、引きこもりだった子どもの面影は一切ありませんでした。いつも会うだけで、私のほうが励まされ、勇気付けられるような立派な青年になっていました。飯村大君が「ただ存在するだけで、周りの人の喜びになる」ような深い愛情と優しさと強さと信念の強さを持った青年になっていたのです。 私が最後に彼と話したのは亡くなる2ヶ月くらい前でしょうか。電話で話しました。「先生、僕は外国に行ってラリーを本気で修行してくる。本場でもまれて、その道で日本のトップになる。そうして、出会いによって運命は変わるんだ、誰でも夢に燃えて生きれば人生を変えることができるんだ、ということを今度は僕が人に伝えたい。何をやっても中途半端だった元不登校児の俺だからできることがあるんだ。だから、今村先生のところで、少し働かせてほしい。そして塾のことも教えてほしい」と言ってくれました。私にとってはものすごくありがたく嬉しい申し出なので「大君、来年の4月からうちの正社員として働け。うちは厳しいけど、おまえなら平気だ」と約束し、来年の春の到来を私は心より楽しみにしていました。

 

そんな中、大くんのお母様からの訃報が届いたのです。。。

大くんが残したメッセージ

ここで、大くんが残したメッセージをお伝えしたいと思います。

ひとつめは交通事故をおこしたあと、札幌の大くんの部屋を引き払うためにご両親が行ったときに引き出しに残されていた大君から父親へあてた手紙です。

出そうと思ったのに、出せなかったようです。こんな形で父親が読むなんて、、、、、。

お父さんへの手紙

拝啓 お父さん

 

こんにちは、お父さん。突然の手紙で驚いていると思う。実は俺も驚いてるんだ。お父さんに手紙を書こうなんて思ったことを。

 

でも、他に方法がおもいつかなかったんだ。本当なら、正月に帰ったときに話すべきだったんだけど、おれの勇気が足りないばかりに話せなかった。

 

だから、手紙に書くことで教えたかったんだ。俺の夢や目標ってやつを。お父さんも知ってると思うけど、俺は今の短大を卒業したらフィンランドに行きたいと思っている。

 

それは、フィンランドのラリースクールに入学して、プロのラリードライバーになるためなんだ。まるで子供みたいな夢でしょ?でも、俺は本気でなりたいと思っているんだ。

 

最初から書いたほうがいいかな?俺がそう思うようにになったいきさつをね。

 

一番最初は、笑っちゃうような話なんだけど、ひとつのアニメを見たときなんだ。「イニシャルD」っていうんだけど、お父さん見たことあるかな?峠道をクルマで競争する走りやたちの物語なんだけど、はじめてテレビで見たとき、俺すごいショックを受けたんだ。クルマが横を向いて、と んでもないスピードで走ってる。しかも、速さを競い合ってる。

 

そのときまで、クルマで競争するといえば、F1とかサーキットでやるレースしかしらなくってさ、ローリング族ってのも暴走族の一種だと思ってたんだ。

 

でも違った。純粋に速さを競ってる。あとて知った事なんだけど、現実もそうだったんだ。学校の先輩でも早くなることを目標に走ってた人がいるんだ。その人は、自分の車をつぶしちゃって、今は走ってないんだけど。

 

話を戻すね。そのアニメを見て俺は衝撃を受けて、それで今の学校に行きたいと思ったんだ。車のことをもっと知りたいってね。雑誌を読みまくって、ドリフトって言う遊びから生まれた競技があることも知ったんだ。

 

それで「ドリフトやりたいなー」って思って、ゆくゆくは大会で優勝したいって考えてた。でも、そのときはまだ本気じゃなかった。走りたいとは思ってたけど、それは仕事をしながら趣味で走るくらいしかかんがえてなくて、走りそのものの先は見てなかった。

 

つまり目標だね。ドリフトの大会で優勝したいとはかんがえてたけど、それくらいしか考えてなかったんだ。

 

でも、大学に行くのを一年遅らせて、塾で勉強することを選んで半年くらいたったころ、ラリーって競技があることを知ったんだ。でも、パリ・ダカとかのラリーじゃない。一般の公道や林道をタイムアタック形式で速さを競うほうのラリーをね。

 

ちょっと興味がわいて、いろいろ調べてみたら、すごく魅力的だった。俺はその瞬間「これだ!」って思ったよ。これが俺の生きる道、俺の目標だってね。

 

またちょうどそのとき、中村天風ってひとの哲学に触れたんだ。塾の先生から貸してもらった本だったんだけど、ここでも衝撃を受けた。くわしく説明すると長くなるし、おれがまだ完全にその哲学を理解できていないから説明はしないけど、とにかくその本を読んで、俺は「人生って、俺の思い通りに生きられるものなんだ!」ってことに気づいたわけ。

 

そこからだったんだ、俺がラリーでプロになりたいって思うようになったのは。

 

この時点で俺はクルマの世界で生きるって決めてたわけだし、どうせなら目標は高く持ちたかったから、F1とならぶ世界選手権のWRC、つまり世界ラリー選手権で優勝したいって思うようになったんだ。

 

これには、俺が登校拒否児で、一度レールから踏み外した身だったからってのもあったと思う。世間の常識って奴は知らないし、まわりと一緒じゃなきゃ不安だって感覚も薄かったからね。

 

それどころか、「どうせレールからはずれた身なんだから、とことんまではずれきってやる」なんて、思いが止まるどころか加速するようなことを考えちゃったりもしたし。

 

そのままの勢いで今の学校に入学して、奨学金でクルマも持てた。でも、クルマを持った当初は、まだ本気になれてなかった。プロのラリーストになりたいとは思ってたけど、それは憧れ程度のものだったんだ。だから、そんなに走る事もなかった。

 

車が故障だらけで、普通に走るのも難しいってこともあったんだけど、やっぱりはしらなかったってことは、本気じゃないってことの表れだからね。

 

それが変わったのは、11月の下旬だったか12月の上旬だったか、お父さんからの電話がきっかけになったんだ。そのとき、お父さんは「今の学校を出たらすぐに就職しなくてもいい、行きたいならまた学校に行ってもいい」って言ったんだ。

 

ちょっと近況報告みたくなっちゃったね。お父さんとしては俺の近況も知りたいところだろうけど、先に夢の話を済ませちゃうから、もう少し我慢してね。

 

で、お父さんからの電話があったあと、いろいろ考えたんだ。どうやったら、子供のころからクルマの英才教育を受けてきた奴らを凌駕できるかとか、俺が走りで表現したいものはなにか、とかね。

 

テクニックに関しては、突拍子もないことを思いついたよ。でも、まだ教えない。本当に突拍子もないことだけに、ちゃんと身についてから言いたいんだ。だから、もうちょっと待ってね。

 

走りで表現したいこと、それはひとつしかなかった。俺みたいに情けない生き方をしてた人間でも、夢や目標のためにいきるようになったらこんなに変われた、ってことを教えたいんだ。

 

言い換えれば、夢や目標を目指すことの楽しさとか幸福感とかを教えたいんだ。で、俺の姿を見てひとりでも多くの人が、夢や目標を本気で応用になれば、それが最高なんだ。

 

これが俺の人生の目標だよ。俺が、人生で体現したいことはこれなんだ。

 

俺には天啓だった。周りに流されて就職するってことしか考えられなくなってたのに、お父さんの一言で思い出したんだ。俺はなんのためにこの学校に来たのかってことをね。

 

俺はこの学校に、クルマに関しての知識と技術を学びに来たんであって、就職するために来たわけじゃなかったんだ。それを思い出したとき、恐くなった。あれほど夢に燃えてたのに、いつの間にか流されてたってことが。

 

ありがとう。本当に危なかったよ。お父さんからの電話がなかったら、俺は今も就職のことしか考えてなかった。夢を夢のままで終わらせるところだった。

 

夢を思い出してから、俺は毎晩走るようになった。特別な用事がない限り、本当に毎日走ってる。おかげで、二日でガソリンを3000円分も使うようになったけどね(笑)。」まあ、俺のクルマの燃費が悪いってのもあるんだけど。なんせ、待ち乗りでもリッター10キロなんて絶対にいかないからね。

 

本当はもっと走りたいけど、さすがにお金が続かないから、今のところはこのペースで抑えてるよ。

 

俺の姿をたくさんの人に見てもらうために、俺の言葉が説得力を持たせるためには、メジャーの世界で有名になるしかない。というより、俺のやりたい車の世界から発進する方法を、それしか思いつかないんだ。

 

だから、その夢の第一歩として、WRCの本場のヨーロッパ、中でもラリーに一番力を入れてるフィンランドのラリースクールに行きたいんだ。

 

そのラリースクールに関してはまだ何も知らないけど、これから情報を集めるよ。幸いな事に、札幌にはフィンランドの有効団体があるし、そこに聞けばなにかわかるかもしれない。いざとなれば、フィンランド大使館に聞くって手もあるしね。

 

おれはやるよ、絶対に。

 

俺の夢の話はこんなところかな。近況報告としては、15日から学校が始まってるよ。元気に過ごしてるから安心してね。あと、自治会会長とてはじめての大仕事、卒業パーティーの準備活動もしている。今のところ順調だね。

 

最後に、この手紙を家じゃなくて、会社のほうに送ったのは、家族の中でお父さんだけにはちゃんと知っておいてもらいたかったからなんだ。お父さんなら、一人の男が夢を追うってことの重要さや大切さってのを知ってると思ったから。

 

とにかく、俺は俺の夢に向かって進むよ。どんな壁がたちはだかろうとも、俺は突破してみせる。だから、お父さんも応援してくれるといいな。

それじゃ、このへんで終わりにするよ。また今度ね。

 

2001年1月16日飯村大

ベッドの横に貼られていた紙

(次に紹介するのが、大くんのベッドの横に貼られていた紙です。21歳の青年が書いたものです。10歳から19歳まで不登校だった人間が書いたものです。大くんにとって最後の3年間は一日一日が10年間を取り戻すかのごとく、熱い毎日だったのでしょう。20歳を超えたばかりの人間がこんなにも熱く生きていたのです。僕らもがんばらねばなりません)

 

<己の役目、到達すべき場所(2001.4.13)>

 

俺が人生において果たすべき役目は、人から「すごい」といわれる人間になること。そして、俺を「すごい」と思った人間の人生をよりよいものにすること。俺が人の目標になり、希望になるのだ。

 

目標を追い、希望を追うものの人生は常に前向き、積極的である。そのとき人は、「人間」として生きている。

 

俺と触れ合った、俺を見て感動した人を、ひとりでも多く輝く人生へと導く。俺が意識的に何かをする必要はない。俺の存在そのものが、俺の言動が人を揺り動かす。そして、人生において走り出したい衝動に駆られるのだ。

 

おれはそういった存在になる。そういった存在になることを己の運命とし、生きることをここに誓う。

 

そのためにはなにをすべきか。

 

まず第一に、絶対積極の境地で意志し続けることだ。そこに達すれば、人によい影響を与える存在になる。俺の人生も光にあふれ、幸福となる。

 

まずは、自分が幸福にならねばならない。常に幸福であるためには、絶対積極の境地に達すること。そして、常に俺の意志を体現し続ける事だ。常に積極的であるように心がけること。言葉、観念、行動を常に積極的たらしめれば、知らずしらずのうちに絶対積極へとたどり着く。

 

第二に、現象面の目標であるWRCドライバーズチャンピオンになるための俺以外に持ち得ない能力を体得すること。能力は大きく分けて、現象面サイドに属するものと内省面そのものに属するものがある。

 

現象面サイドのものは、1/1000mm単位のマシンコントロール能力と、道とクルマの「声」を聞く能力である。1/1000mm単位のコントロールはいわずもがなである。

 

道とクルマの「声」は、ことラリーにおいては必須となる。全SSのコースの把握、刻々と変化する路面状況とマシンコンディション、メカニカルトラブルを防ぐ方法あるいは発生時期の感知、ベストのラインどり、ベストのブレーキング、べストのギア、ベストのステアタイミングと切込み角、ベストのアクセル開度など、それらを統合して最速の走りを実現させる。

 

これを実現せしめるには、毎日毎晩走りこむしかない。また、サーキットやダートトラックに通い、ひたすら経験を積む。そして、常に「実現できる」と信念して走り続けることだ。

 

内省面サイドのものは、内省面から現象面に働きかけ、限界を超えた速さを引き出すとともに、俺の意志と信念を人に認識させること。俺に起こるすべての奇跡的事象は奇跡などではなく、俺の意志と信念によって引き起こされたものだ。

 

これが重要である。この能力は、絶対積極の境地にいることと、1/1000mm単位のマシンコントロール能力および道とクルマの「声」を聞く能力を体得した上で、はじめて可能な業である。俺の人生の意味、俺の存在そのものの体現でだ。

 

まさしく奇跡そのものである。そう人には見えるだろう。しかし、これは俺がもっともおれらしいとき、つまり意志と信念そのものになったときに現れるものだ。おれにとっては自然なことなのだ。

 

俺は、絶対積極で意志し続ける俺らしい俺になる。

 

そして、光の人生を歩む。おれのまわりにいるもの、俺を見て感動したものの先頭を行き、幸福のただ中、光となって走り続ける。

 

期限:2002年5月(22歳)

1/1000mm単位でのマシンコントロールをマスターする。

道とクルマの「声」を聞けるようになる。

 

おれは意志と信念のかたまりだ。

おれは力の結晶だ。

おれは人間を極めるものだ。

おれはどこまでも走り続ける者だ。

おれは、なにものにも打ち克つ、比類なき存在だ。

今村より天国の飯村大君へ(2002年5月、お葬式にて)

大君、君の事故を2002年の5月に聞いたよ。2002年5月が期日の目標の1/1000mm単位でのマシンコントロールと道とクルマの声は聞けたかい?

 

今、幸福のただ中、光となって走り続けているのだろうな。君はもう俺を飛び越えてしまい、多くの人にメッセージを伝えられる凄い奴になったよ。悔しいけど、俺はもう一生、君には追いつけない。

 

大君、君が残したほんの3篇のメッセージを見ただけで、君がいかに一生懸命で充実してやりがい、生きがいのある人生を札幌でおくっていたかよく伝わってきた。

 

そしてなんて積極的に深い優しい愛情に包まれた人生を歩んでいるかもよく伝わってきた。 君が残してくれたメッセージを読み、僕は4年前にタイムスリップしたような錯覚を覚えた。当時、僕も長かった闘病生活を終え、「この苦しかった経験を味わった俺にしかできないことがある。俺の生き様を通していろんな人を救ってやろう」と志を持って塾を始めた。

 

今、ふと気づくと生徒数はあのころの10倍以上になっている。でも頭の中には「顧客満足度を上げないと」「クレームがあったら迅速に処理しないと」「成績を上げないと」「どうやって偏差値を上げさせようか」「マネジメントをどうしようか」「システムをどうつくろうか」「報告、連絡、相談をしっかりさせないと」・・・・

 

気がつくとそんなことばかり考えるようになっていた。あのころ、一番、俺たちが恥じていたことだよな。あのころは20人しかいなくても、みんなが自分らしさを見つけられる空間だった。今でもあのころの仲間は誰一人普通の生活はしていないけど、誰もが輝いた人生をわくわくしながら生きているよ。なぜ、おれだけがたったの3年でこんなに変わってしまったのだろう。

 

大君はアシストの歴代の生徒の仲で一番の優等生だった。大君より勉強ができる生徒はたくさんいる。でも、君ほど自分の人生を変えた人は他にはいない。君ほど明るく前向きに積極的で他人に優しい生徒は他にはいない。それもたくさんの苦しかった事、つらかったこと、悲しかった事、困難を乗り越えて手に入れた優しさだからなおさら深くて強い。

 

俺が「こんな人間を育てたい」と思っているすべてを具現化したような奴だった。だから君がレーサーになる夢とともに「俺がこんなに積極的になれたんだから、今度は俺がみんなにこれを伝えたい。夢を持つことと、一生懸命がんばることを今度は俺が伝えるよ。ずっと登校拒否をしてきた俺だからできることがある。俺にしかできないことがあるんだ。今村先生のところで塾の勉強をさせてほしい。俺はレーサーになって、同時にアシストを札幌でも広めるよ」と言ってくれたときは本当に嬉しかったぞ。

 

君がにこにこし、わくわくし、いつも楽しそうに俺に何か報告してくれる姿ばかりが思い起こされる。俺にとって救いだったのはあのころの俺の遺伝子が君の中に残っていた事だ。

その遺伝子が君のメッセージを通じてまた今の俺に帰ってきたことだ。

 

大君は俺の誇りだ。創業の魂だ。俺はもう一度、第二、第三の飯村大を育てて見せる。与えられた命を燃焼させる生き方を伝え続けていくよ。一生、君のことは忘れない、大君、安らかに眠ってくれ。そしてずっと俺たちを笑顔で励まし、見守ってくれ。

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